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サンフランシスコ条約調印
昭和26年日本が占領下から独立国として国際社会に復帰するための対日講和会議は、9月4日から8日まで、サンフランシスコで52か国の代表団が参加して開かれた。8日、ソ連、チェコ、ポーランドを除く49か国がサンフランシスコ条約に調印した。日本は千島列島(4島は含まず)と樺太を放棄した。
マッカーサー元帥の解任
昭和25年に勃発した朝鮮戦争の国連軍総司令官に任命され、韓国・仁川奇襲上陸で状勢を逆転させたが、トルーマン大統領の政策に公然と反対して、原爆に使用を視野に入れた義勇軍が参戦した中国ばかりかソ連との全面戦争を主張したため、昭和26年4月11日に解任された。マッカーサーが日本を去るにあたっては、何十万通というファンレターが寄せられ、4月16日の帰国の日には20万人の日本人が羽田で見送ったが、それらは占領の世界史の唯一の例外であった。解任後の昭和26年4月19日の米・議会での演説で「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」との大演説を残し、マッカーサーは、ここに52年間の軍人生活に別れを告げた。
桜木町事故
昭和26年4月24日、神奈川県横浜市の桜木町駅付近で、京浜東北線の電車が炎上し死者106人、負傷者92人を出す大惨事となった。一両目は全焼し、二両目の天井を焼失して火は鎮火した。救急隊が駆けつけ、炎上した先頭車両のドアを開けると焼死体がバラバラと落ちてきた。助かった者も髪や衣類を焼かれ、半狂乱で「助けてくれ」「熱い、熱い」と叫び地獄絵図のようだった。犠牲者も一両目に集中していたのは、終点の桜木町駅の改札口に一番近いのが先頭車両であるため、先頭車両が一番混んでいた。その結果、多くの犠牲者を出してしまった。事故車は「モハ63型」と呼ばれ、昭和18年に物資不足の中で設計・製造された車両であった。そのためガラス不足で大きな窓が作れず、窓を3層構造にしていた。このため、乗客が窓を足で蹴って割って外へ脱出することが極めて困難であった。さらに、ボディは木造で耐火塗料も施していなかった。 また、非常ドアのコックも場所が判らず、いわば密室に閉じ込められた状態で焼死したのだった。
日本航空が営業開始
昭和26年8月1日に日本航空株式会社として設立された。当時日本は敗戦直後で、一切の航空活動が禁止されていたために、ノースウエスト航空に運航を委託し、同年10月1日にマーチン202型機「もく星」号で国内線の運航を始めた。そして翌1952年10月25日には、DC-4で自主運航を開始、機体塗装も一新した。ところが航空機の運航にかかる経費は莫大で、政府の援助は不可欠であった。そこで1953年10月1日には、日本航空株式会社法が施行され、日本航空は半官半民の特殊法人として再出発することになった。
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