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よど号ハイジャック事件
昭和45年3月31日、羽田発福岡行き日本航空ボーイング727型機(乗客121人、乗員7人)が定刻の午前7時21分に羽田を離陸した。およそ12分後の7時33分頃、共産主義者同盟「赤軍派」、リーダ田宮高麿ら9人が日本刀などで乗員を脅し「平壌へ行け」とハイジャックした。石田機長は「この機は国内線専用だから、北朝鮮に行くには燃料補給が必要だ」と犯人側と交渉し午前8時59分、福岡空港へ着陸した。犯人達は、乗員・乗客が機外へ出ることを禁じ燃料補給をした。警察との交渉で、女性・老人・子供の23人を降ろして、午後1時58分、福岡空港を離陸し朝鮮半島へ向かった。

この事件は日本初のハイジャックであり、教訓として6月に「ハイジャック防止法」(航空機の強取等の処罰に関する法律)が制定された。(憲法の遡及処罰禁止規定により、犯人グループは帰国した場合この法律ではなく、略取及び国外移送罪、傷害罪で処罰される 国外逃亡として時効は停止)

ちなみに「よど号」とは、ハイジャックされたボーイング727の愛称。


日本万国博覧会開催
別名⇒大阪万博、EXPO'70。
大阪府吹田市の千里丘陵(約350ヘクタール)で、1970年3月15日から9月13日まで183日間行われた日本で最初の国際博覧会。主催は日本万国博覧会協会(当時、現在の独立行政法人日本万国博覧会記念機構)。

バンパクと親しまれ、「人類の進歩と調和」をテーマとし、日本を含む77カ国と四つの国際機関が参加した。総入場者数は、6421万8770人と万博史上最多。東京オリンピック(1964年)以来の国家的イベントであり、高度経済成長を成し遂げ、アメリカに次ぐ経済大国となった日本のシンボル的な意義をもった。(現在では人気パビリオンでの数時間の行列など「大量の人による混雑」が良く伝えられており、特に「月の石」を展示したアメリカ館の行列は延々続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。)


三島由紀夫割腹自殺
1970年11月25日、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバーと共に「総監に刀を見せる」と訪れ、 自慢の名刀を益田兼利総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、人質に取って籠城、バルコニーで自衛隊決起を促す演説をしたのち割腹自殺した。

原因は三島自身が演説している最中「三島ーっ。頭を冷やせ!!!!」「何やってんだバカヤローっ!!!!」と自衛隊員から野次を飛ばされたことに愕然としたからだといわれる。

介錯は森田必勝および古賀浩靖。最初は森田が斬りつけたものの二度失敗し刀を曲げてしまい、有段者の古賀に交代してやっと果たせた。
なお古賀浩靖は服役後、谷口清超・生長の家総裁の娘と結婚し、荒地浩靖の名で宗教活動を行っている。
公害問題(光化学スモッグ・鉛汚染・ヘドロ)
1970年7月18日の午後、東京都杉並区堀ノ内にある東京立正高校で、ソフトボールの練習をしていた女子生徒など40数人が目の痛みや呼吸困難を訴え、病院に運ばれた。

日本で光化学スモッグによる最初の被害者が出たといわれる事件。光化学スモッグそのものは、米ロサンゼルスで発生していることで知られていたが、日本で、しかも人が倒れて病院に運ばれる被害が出たことは大きな衝撃をもたらした。

70年は光化学スモッグに限らず、東京都新宿区牛込柳町の鉛汚染騒動、静岡県田子の浦のヘドロ問題など、日本各地で高度経済成長の ひずみが公害問題として噴出した年でもあった。
この年の国会は、「公害国会」と呼ばれ、公害関連の14法案が可決されている。当時の佐藤栄作首相も、公害を「国民の最大の関心事」と位置づけ、翌71年には環境庁を新設した。

光化学スモッグは、窒素酸化物と炭化水素が太陽の紫外線を受けて化学反応を起こし、「光化学オキシダント」と呼ばれるオゾンなど酸化性物質が生成されることで発生する。

日米安保自動継続
1970年6月22日、日米安全保障条約は10年間の固定期限切れを迎えたが、政府は「引き続きこの条約を堅持する」との声明を発表、自動延長されることとなった。
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新安保条約の期限が切れる45年に向けて、条約を再改定するか又は自動継続するかが問題となり「70年安保闘争」が42年後半以降45年までにわたって取り組まれた。

◆60年安保闘争◆
1951年に締結された安保条約は、1958年頃から岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年1月に条約が調印された。この間、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増す、などの理由で反対運動が高まっていった。特に5月20日に衆議院で強行採決されると、民主主義の破壊であるとして一般市民の間にも反対の機運が高まり国会の周囲をデモ隊が取り囲んだ。
条約は参議院の議決がないまま6月19日に自然成立したが、予定されていたアイゼンハワー大統領の来日も中止となり、混乱を収拾するため、7月、岸内閣は総辞職した。
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