懐かしい思い出がここにあります。 RetroFun

HOME TVドラマ 音  楽 映  画 世  相
1950年代へ
1960年代へ
年代別
1970年(昭和45年)
1971年(昭和46年)
1972年(昭和47年)
1973年(昭和48年)
1974年(昭和49年)
1975年(昭和50年)
1976年(昭和51年)
1977年(昭和52年)
1978年(昭和53年)
1979年(昭和54年)
1980年代へ
1990年代へ
リバイバル1972年へ

連合赤軍あさま山荘事件
昭和47年2月19日午後3時過ぎ、連合赤軍の坂口弘、坂東国夫、吉野雅邦、加藤倫教とその弟(当時16歳)の5人は群馬県榛名山中の軍事訓練中、警察の包囲網が迫っていることを察知し3日間山中を彷徨い群馬県軽井沢町にある河合楽器の保養所「あさま山荘」に乱入した。

あさま山荘は山の斜面に達つ建物で、正面入り口前の道路は狭く反対側は広大な斜面が広り、機動隊が突入するには不利な条件であった。 連合赤軍は、ライフル銃や散弾銃で完全武装をしており機動隊に向けて銃撃。このため機動隊も迂闊には近寄れず人質の安否も分からない中、催涙弾、放水で揺さぶるほか手立ては無かった。篭城から四日目の午前11時過ぎ、民間人の田中保彦が機動隊の警戒線を突如突破してあさま山荘に近づいた。田中は連合赤軍に向かって「私は医者で新潟から来た」などと話しかけた。連合赤軍の吉野は機動隊と勘違いして管理人室の押入れから射撃した。田中は頭を撃たれて3月1日に病院で死亡した。

あさま山荘篭城10日目の2月28日、篭城210時間を超えて人質の牟田泰子さんは限界であると判断した警察は強行突破を図る。午前10時、玄関前に横付けしたクレーン車が振り出すモンケンというビル解体工事に使う鉄球が、あさま山荘の壁を破壊する。そこへ機動隊が突入し激しい銃撃戦が展開された。午前11時27分、警視庁特科車輌隊の高見繁光警部が散弾銃で撃たれて即死。同54分警視庁第二機動隊長の内田尚孝警視はライフル銃で狙撃され死亡。同隊の大津高幸巡査(当時26歳)は散弾銃で撃たれ左目が失明する重傷を負った。

機動隊は、犠牲者を出しながら山荘内のバリケードを突破し午後6時20分、「いちょうの間」になだれ込み5人の逮捕と人質の泰子さんを無事救出した。

横井庄一さん帰国
昭和47年2月2日午後2時15分、グアム島で、漁民に発見され救出された横井庄一元陸軍伍長が、日航臨時便で31年ぶりに日本に帰国した。記者会見で「恥ずかしながら生きて帰ってまいりました」の第一声は当時の流行語となった。

横井さんは戦争当時、第29師団に配属され食料・弾薬を運搬する部隊にいた。昭和19年、米軍がグアム島に上陸してきた。圧倒的な米軍の兵器の前に日本軍は敗走。戦闘時2万人いた兵力はすでに3000人となり戦闘継続は困難な状況であった。投降を呼びかける米軍に、当時の指揮官である佐藤少佐は、これを受け入れる。不幸であったのは、横井さんの部隊は佐藤少佐の直接の指揮下ではなかったため、投降命令が伝わっておらず、横井さんは2人の部下と共にジャングルの奥深くで潜んでいた。

帰国を果たした横井さんは、記者会見で「終戦は、米軍が落とした宣伝ビラで知っていた、もし出て行ったら軍法会議で処刑されることを恐れていた」ことなどを話した。
札幌オリンピック
札幌冬季オリンピック開催
アジアで初めて開催された冬季オリンピックの開催地・札幌は、冬季オリンピック史上最大の開催都市(人口100万人都市)であり、最も南の地で開催された都市でもあった。開催に合わせて市内の大規模な整備、地下鉄建設など札幌の街は大発展を遂げた。

1972年2月3日、快晴の青空の下で開会式が行なわれ、札幌冬季オリンピックが開幕。開会宣言は天皇陛下(昭和天皇)、選手宣誓はスピードスケート・鈴木恵一選手。

競技面での話題は、何といっても宮の森で行われた70メートル級ジャンプで、日本選手が金・銀・銅メダルを独占した。金メダルの笠谷幸生選手は、大会直前の年末年始に行われた、伝統の「ヨーロッパ・ジャンプ週間」で開幕から3連勝し、金メダル候補の筆頭だった。好調を維持するために最後の第4戦のオーストリア・ビショスフホーヘン大会を欠場、札幌に戻っての調整を選択。しかしジャンプ熱が高いオーストリアでは、“スター選手・カサヤ”の欠場が”ボイコット”と受け取られ、(これが原因で現在でもビショスフホーヘン大会で日本選手が飛ぶ時はブーイングが起きる。)
しかしこの調整法が功を奏してか、笠谷選手はオリンピック本番では日本中の期待を一身に背負いながら、見事なジャンプを見せる。

笠谷選手は日本中の期待に応えて見事に金メダルを獲得、銀メダルの金野昭次選手、銅メダルの青地清二選手と共に“日の丸飛行隊”と称えられ、英雄となった。

沖縄返還
沖縄返還
1972年5月15日、沖縄の施政権が米政府から日本政府に返還された。その実現までには、長い日米政府の交渉があり、沖縄県祖国復帰協議会などを 中心とするいわゆる日本(祖国)復帰運動の高揚、そしてこの沖縄の運動に対応する本土側の沖縄返還運動という展開があった。

米政府内では1966年に沖縄特別作業班が設置され、討議が開始された。国務省と国防省の文官は〈沖縄と日本本土で復帰運動がたかまっているため、沖縄基地を引き続き維持していくためには施政権返還が必要である〉ことを主張するにいたった。沖縄の復帰運動は激化の一途をたどり、ついに1968年11月主席公選で屋良朝苗革新統一候補が当選するにいたる。こうした沖縄の動きを背景に1969年11月の佐藤総理-ニクソン会談で沖縄の本土返還が合意された。

関連書籍⇒ドキュメント 沖縄返還交渉 著:三木 健
大阪千日デパート火災
昭和47年5月13日午後10時頃、大阪市南区難波新地(現、中央区千日前2丁目)の雑居ビル「千日デパート(地上7階、地下1階)」の3階から出火。火は瞬く間に燃え広がり、火と煙が最上階の7階まで達した。7階ではアルサロが営業中で、逃げ遅れた客やホステス、従業員らが灼熱と猛煙に我慢ができず地上へ飛び降りたり、酸欠などで死者118人、重軽傷42人を出す戦後火災最悪の大惨事となった。

警察、消防の調査によると、3階のスーパで配電工事をしていたが、その工事の現場監督が投げ捨てたタバコの火が引火、一気に燃え広がったことが原因と推定された。が、千日デパートも非常口が不備であったこと、窓が小さく救助が困難であったこと、従業員の誘導が不備であったことなどからビルの所有者、アルサロの経営者ら3人が業務上過失致死傷罪の容疑で書類送検された。

昭和59年5月、大阪地裁は3人に対して全員を無罪とした。ビル火災の責任追求がいかに困難であるか、大都市での雑居ビルの安全対策問題に一石を投じた。 
リバイバル1972年へ
【広告】副業でお金儲け/ パワーストーン星のかけら