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三菱重工ビル爆破事件
昭和49年8月30日昼過ぎ、東京・丸の内にある三菱重工ビルの正面玄関前に仕掛けられていた時限爆弾が爆発した。この爆破の5分前、同社に爆破の予告電話があり警備員らが捜索しようとした矢先であった。この爆破で三菱重工ビルはもとより、近隣のビルの窓ガラスが破壊され、お昼に外食で歩いていたサラリーマン、OLらは空から降ってくるガラスの破片で重軽傷を負った。

三菱重工ビル内にいた社員も、爆風や破壊されたガラスで死亡するなどビル内は血の海と化した。この爆破で死者8人、重軽傷者370人をだす日本国内では最大のビル爆破事件となった。現場検証及びその後の調査で、この時限装置付きの爆弾はペール缶2個に40キログラムの容量が入った爆薬だった。

事件直後、東アジア反日武装戦線『狼』と名乗るグループが犯行声明を出し、一連の企業爆破事件へとつながった。
長嶋茂雄現役引退試合〜栄光の背番号3〜
長嶋茂雄、現役引退
『私は今日引退しますが、我が巨人軍は永久に不滅です』昭和49年10月14日、長嶋茂雄は選手としてのユニホームを脱いだ。

首位打者6回、最多安打10回、最多本塁打2回、最多打点5回、 新人王 1958年、MVP 5回、ダイヤモンドグラブ賞 2回、日本シリーズMVP 4回、ベストナイン 17回(現役すべての年で受賞)という輝かしい成績を残し、背番号3は読売の永久欠番になった。

現役引退後の75年から巨人軍の監督に就任するが、初年度は最下位に終わる。

たった一人の30年戦争
元日本兵・小野田寛郎30年ぶりに救出
横井さんの帰国によって、日本兵の生き残りが多数未だに山中に潜伏していることが知られるようになり、小野田の家族や戦友などが中心となり政府を巻き込んだ捜索活動を実施するも発見には至らなかった。1974年、このことに触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に彼と接触することに成功する。鈴木は日本が敗北したことや現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する。3月9日にかつての上司である谷口元少佐から任務解除命令が下り、小野田にとって戦争は終わった。こうして、小野田は30年ぶりに救出され、帰国が実現した。

帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだことや現地住民との銃撃戦によって多数の住民が死傷したことが明らかになったこと(フィリピン政府当局の判断により、小野田の訴追は見送っていた)、また本当に小野田は敗戦を知らなかったのかという疑問が高まるにつれて「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批判がマスコミにも現われた。父親との不仲などもあり、大きく変わった日本社会に馴染めず、帰国の半年後に実兄のいるブラジルに移住して牧場経営をする。

甲山(かぶとやま)学園事件
昭和49年3月17日、兵庫県・西宮市の知恵遅れの子供達の施設「甲山学園」で、女子園児が行方不明になった。2日後の19日は、男子園児が同じく行方不明となった。警察、同施設の職員らが行方を捜索した結果、男子園児が行方不明になった日の夜、二人とも園内のトイレ浄化槽から水死体で発見された。警察は、二人の水死体が発見された浄化槽のマンホール(約17kg)が閉められており、事故ではなく殺人と断定。犯人の捜査を開始した。

警察は、外部から侵入した形跡は無いと断定し犯人は内部の者と判断した。そこで甲山学園の職員や園児らに取り調べを行う。学園内に「取調室」を設けて連日、職員のアリバイと動機を中心に取り調べを行う。この取り調べで、保母の山田悦子が嫌疑をかけられる。4月4日、園児が、「山田先生が男児を連れて行くのを見た」という目撃証言がでた。更に、17日と19日は学園に居たこと。19日の犯行時間と思われる午後8時前後のアリバイが無いこと。園児の遺体が見つかった時と、葬儀の時に激しく泣いて取り乱したという理由から、4月7日、男児の殺害容疑で山田を逮捕した。

山田は、連日10時間の取り調べを受け、精神的・肉体的に限界がきていたところ、取調官から「父親は、悦子がやったとのではないかと疑っている」、「学園の職員たちも山田を疑っている」などと嘘を言って、犯行自供の強要をした。4月17日、山田は「女児と男児をマンホールに落として殺したのは自分」であると自供した。しかし、あまりにも供述内容が曖昧で辻褄が合わず、拘留期間限度の23日後、山田は「証拠不十分」として釈放された。

関連書籍⇒記憶の闇―甲山事件〈1974→1984〉 著:松下 竜一
津川雅彦の長女誘拐事件
昭和49年8月15日午前3時すぎ、俳優の津川雅彦と女優の朝丘雪路の長女の真由子ちゃん(当時5ヶ月)が東京都世田谷区野沢の自宅2階から誘拐された。

その後、犯人は電話で身代金5000万円を銀行に振り込むことを要求。翌16日午後0時15分ごろ、第一勧銀(現・みずほ銀)東京南口主張所のATMから現金を引き出そうとしたところを逮捕された。犯人は当時23歳の無職の男で、男の自供から真由子ちゃんは同日午後7時15分、千葉県我孫子市の男のアパートで約41時間ぶりに無事保護された。

男は同年3月末、乗用車を盗み、7月に保釈金100万円を積んで保釈されていた。この金は妻が借金して作った金だったが、職が見つからず返済のメドがたたないことから誘拐を計画。初めは歌手の佐川満男・伊東ゆかり夫妻の長女誘拐を計画していたが、住所が分からなかったため津川夫妻の長女に変更したのだという。8月18日、男の妻も男が誘拐したことを知りながら預かっていたとして逮捕された。昭和50年4月、千葉地裁松戸支部で男に対し余罪を含め懲役10年6ヶ月の判決。昭和51年4月、東京高裁で懲役12年6ヶ月の判決だった。この事件は銀行のオンライン・システムを使った日本で初めての誘拐事件だった。
 
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